2009年6月25日、キング・オブ・ポップことマイケル・ジャクソンは、50歳でその生涯を閉じました。
死因は薬物の過剰摂取による心停止で、主治医だったコンラッド・マレーは過失致死罪で有罪となっています。
マイケルは人類史上最も成功したエンターテイナーとしてギネス世界記録に認定され、13のグラミー賞(ノミネートは38回)をはじめとする、世界各国の数多くの賞を受賞し、アルバム、シングル、DVDなどの総売り上げ枚数は7億5千万枚とも言われています。
しかし、その華やかなキャリアが注目される一方で、父親の虐待や容姿のコンプレックス、児童性的虐待の告発など、私生活は苦難に満ちたものだったようです。
そんな波乱に満ちた人生を送ったマイケルの伝記映画「Michael/マイケル」が、2026年6月12日に公開されました。
動物好きで優しくて繊細な青年が、ポップス界の頂点に上り詰めるまでの過程が描かれたこの映画は、全世界興行収入が6月15日時点で9億3,000万ドルを突破し、「ボヘミアン・ラプソディ」の世界興行収入9億1,100万ドルを上回り、音楽伝記映画として歴代No.1の記録を更新しています。
実の甥であるジャファー・ジャクソンがマイケルを演じていることで大きな話題となっており、幼少期のマイケルをジュリアーノ・クルー・バルディが演じています。
ジュリアーノ・クルー・バルディは、マイケルになりきったパフォーマンス動画で人気を集める天才キッズダンサーで、インタビューでは「マイケルを演じられるなんて夢みたいだ!」と語り、役作りのために大変な努力をしてきたと明かしました。
キノフィルムズより

レノックスも映画観てきました!血縁者がマイケル役を演じているのが何とも感慨深いです。ジャファーは役作りに2年も掛けたそうで、完成度が本当に素晴らしい!それにライブのシーンはまるでマイケルのライブをリアルタイムで観ているような大迫力!!この映画を観ればマイケルのことがもっと好きになること間違いなしです!
生い立ち
マイケル・ジョセフ・ジャクソンは、1958年8月29日にインディアナ州ゲーリーで生まれました。
アフリカ系アメリカ人の労働者階級の家庭、ジャクソン家の10人兄弟の8番目で、母親のキャサリンはカントリー・アンド・ウェスタン歌手になることを夢見ていて、エホバの証人の熱心な信者だったそうです。
マイケルもキャサリンの影響で幼少期からエホバの証人の集会への出席や、伝道活動を行っていましたが、1987年頃にエホバの証人から自発的に身を引く決断をしました。
父親のジョーは元ボクサーでクレーン運転手の仕事をしながら、地元のリズム・アンド・ブルース・グループ、ファルコンズでギターを演奏していましたが、ミュージシャンとして成功する夢は叶わず、その夢を子供たちに託したと言われています。
↓マイケルのご両親です!
画像出典:(michaeljackson)インスタグラムより
ジャクソン5のリードシンガーとして才能を発揮
ジョーは長男のジャッキー、次男のティト、三男のジャーメインの3人で、ジャクソン・ブラザーズというバンドを結成しましたが、1964年にマイケルも兄のマーロンと共に加入します。
バンドに加入してからはジョーの厳しい指導の下、放課後に1日5時間練習をさせられ、他の子供たちと外で遊ぶことも許されず、ミスをするとジョーにベルトのバックルや電気ケトルのコードで殴られるなどの暴力も受けました。
1965年後半頃、マイケルはジャーメインとリードボーカルを分担するようになり、グループ名もジャクソン5に変更されました。
その後マイケルがリードボーカルを担当し、圧倒的な音楽的才能を持つ天才少年として大きな注目を集めるようになり、1970年1月にデビューアルバムからの最初のシングル「I Want You Back」がジャクソン5のシングルとして初めてビルボードホット100で1位を獲得します。
続いて「ABC」、「The Love You Save」、「I’ll Be There」も1位を獲得し、ジャクソン5は全世界で1億5000万枚以上のレコードを売り上げ、史上最も売れたアーティストの1つとなったのです。
画像出典:(michaeljackson)インスタグラムより
ソロ活動の開始
マイケルはレコードレーベル「モータウン」から1972年1月24日にデビューソロスタジオアルバム「Got to Be There」をリリースし、50万枚以上の売り上げを記録し、ゴールドディスクに認定されました。
続いて1972年8月4日に2枚目のスタジオ・アルバム「Ben」をリリースし、音楽評論家からは賛否両論の評価を受けましたが、アメリカのビルボード200でトップ10入りを果たしました。
その後、モータウンから「Music & Me(1973年)」、「Forever, Michael(1975年)」をリリースし、1975年にジャクソン5はモータウンを離れ、エピック・レコードと契約し、ジャクソンズと改名します。
1977年にマイケルはニューヨーク市に移り、ミュージカル映画「ザ・ウィズ」でスケアクロウ役を演じましたが、この映画は興行的に失敗に終わりました。
そして1979年に5枚目のソロアルバム「Off the Wall」をリリースし、このアルバムから全米でトップ10入りした4曲が生まれ、天才少年から大人の実力派アーティストとしての成長を遂げます。
アルバム「スリラー」で成功を収める
1982年11月29日に6枚目のスタジオアルバム「スリラー」がリリースされ、1983年に世界で最も売れたアルバムとなり、最終的には米国と世界中で史上最も売れたアルバムとなりました。
このアルバムはビルボード200で37週間1位を獲得し、ビルボードホット100で7曲のトップ10シングルを生み出した最初のアルバムという大成功を収めたのです。
画像出典:(michaeljackson)インスタグラムより
真似する人続出?ムーンウォーク誕生秘話
マイケルの代名詞ともいえる「ムーンウォーク」が世界に初披露されたのは、1983年5月16日(全米テレビ放映日)です。
テレビ特番「モータウン25周年記念コンサート」のステージで、アルバム「スリラー」の大ヒットシングル「ビリー・ジーン」を披露した際、間奏での華麗なスライドステップとして初公開され、世界中に衝撃を与えました。
しかし、このムーンウォークを考案したのはマイケルではなく、ダンサーのジェフリー・ダニエルもテレビ番組でムーンウォーク(バックスライドと呼ばれるダンスの技法)をすでに披露しており、マイケルはジェフリーや他のダンサーから指導を受け、改良を重ねてムーンウォークが完成したそうです。
このムーンウォークをテレビで見てマイケルに憧れた子供たちが真似をしたり、日本でも田原俊彦さんや風見慎吾さんがマスターしてテレビで披露したりと、世界中の人々がこのステップを真似しました。
初のワールドツアー
1987年8月31日に7枚目のスタジオアルバム「Bad」をリリースし、ビルボード200で初登場1位を獲得し、5曲のシングルが全米1位を獲得した最初のアルバムとなりました。
そして、マイケルにとって初のソロワールドツアーが1987年9月12日に日本で始まり、1989年1月27日にアメリカで終了しました。
マネージャーのフランク・ディレオが、日本に熱心なファンがいるため、ツアーは日本公演から始めると述べ、ペプシがツアーのスポンサーだったため、夏の間日本でのペプシの売上は2倍になったそうです。
このバッド・ワールド・ツアーで来日した時、ペットのチンパンジー、バブルスも共に来日し、バブルスの存在は日本でも有名になりました。
↓懐かしいバブルス君!現在はフロリダにある大型類人猿の動物保護施設で暮らしているそうです。
画像出典:(michaeljackson)インスタグラムより
おとぎ話を夢見るロマンチスト
1988年にマイケルは元々牧場だった広大な土地を購入し、その土地にマイケルのお気に入りのヒーロー「ピーター・パン」の物語に登場する、歳を取らない少年の架空の島ネバーランドにちなんで名付けた「ネバーランド・ランチ」を、自宅兼私設遊園地として造り上げました。
そこには多数の庭園彫像、遊園地の乗り物、ふれあい動物園の他に、「ネバーランドバレー鉄道」と名付けられた鉄道もあり、母キャサリンの名がつけられた蒸気機関車もあったそうです。
画像出典:(mashable.india)インスタグラムより
容姿に対する強いこだわり
父親のジョーは、バンドの練習中にミスをすると殴るなどの虐待を行っていましたが、中でもバンド最年少で最も才能のあるメンバーであるマイケルに対しては、精神的な虐待も行っていたようです。
ジョーはマイケルが鼻の大きさにコンプレックスを抱いていることを知ると、「ビッグノーズ」と呼び、そのせいでマイケルは大人になっても鼻のことが常に気になるようになり、鼻の整形手術を何度も繰り返したため鼻の軟骨が失われて崩れてしまい、撮影や公の場に出る際にはパテやメイクを使って義鼻を接着する必要があったといいます。
また、1984年にペプシのCMの撮影中に花火が誤ってマイケルの髪に引火して頭皮に重度のやけどを負い、傷跡を隠すための治療を受け、その後すぐに3回目の鼻の整形手術を受けています。
白人への憧れ?
マイケルは1980年代半ばから徐々に肌の色が白くなり、白人に憧れて肌を漂泊しているのではないかという噂が飛び交いました。
実はマイケルは白斑症という、皮膚の色素が失われる斑点が特徴的な疾患に罹患していて、この病気によって生じた不均一な斑点を隠すために明るい色の化粧品や、おそらく肌を漂白する処方クリームを使用していたと考えられています。
そしてマイケルは「僕は黒人であることに誇りを持っている」と語り、白人に憧れて肌を白くしたという噂をきっぱりと否定しました。
児童性的虐待疑惑
1993年にマイケルはジョーディ・チャンドラーという13歳の少年と親しくなりますが、その父親で歯科医のエヴァン・チャンドラーは息子がマイケルから性的虐待を受けたと主張し、息子にも嘘の証言をさせます。
その後マイケルは警察の捜査を受けることになりますが、大規模な捜査でも証拠が見つからなかったため、警察はマイケルを起訴できませんでした。
性的虐待の話が出る前にマイケルはエヴァンから何度も金銭の要求を受けていたため、1993年8月下旬にマイケル側の弁護団がエヴァンとその弁護士であるロスマンを恐喝容疑で訴えましたが、恐喝容疑の捜査が公正に行われず1994年1月に捜査は中止されてしまいます。
そして、1993年1月25日に「マイケル・ジャクソンは少年に対し性的虐待をしたことを認めない」という確認書に双方のサインがなされ、推定21億円という多額の和解金がマイケルの保険会社から支払われることで和解が成立しました。
その後エヴァンは、マイケルファンからの襲撃を恐れ、何度も整形手術を繰り返して別人のような姿となり、妻や子供とも離別して孤独な晩年を送り、2009年11月5日、65歳のエヴァンはニュージャージー州の高級アパートメントにて遺体で発見され、自殺と判定されました。

子供好きなマイケルは、ネバーランドに子供たちを招待して楽しませてあげていただけなのに、その好意を悪用して性犯罪をでっち上げてお金を要求するなんて、絶対に許せないよね!
慈善活動でギネスの世界記録保持者に
マイケルは、その多大な慈善活動と人道主義でよく知られており、ギネス世界記録はマイケルを「ポップスターが支援した慈善団体の最多額」の世界記録保持者として認定し、生涯を通じて推定5億ドル以上をさまざまな慈善団体に寄付したとされています。
以下が慈善活動の一部です。
・1988年の楽曲「マン・イン・ザ・ミラー」の収益を、癌を患う子供たちのためのキャンプであるキャンプ・ロナルド・マクドナルド・フォー・グッドタイムズに寄付。
・マウントサイナイ・ニューヨーク医療センターにがん研究用の19床の病棟を設置し、ビクトリーツアーの収益の一部を全米黒人大学基金に寄付。
・ペプシの広告出演で得た全額150万ドルを、カルバーシティにあるブロートマン医療センターのマイケル・ジャクソン小児火傷センターに寄付。マイケルはペプシのCM撮影中に火傷を負い、そこで治療を受けていた。
・1988年、ウェンブリー・スタジアムでのコンサートに先立ち、マイケルはチャールズ皇太子とダイアナ妃と面会し、プリンス・トラストと小児病院に総額40万ドル以上の小切手を手渡した。
・世界中の子供たちの病気や貧困と闘うために、ヒール・ザ・ワールド財団を設立した。
そして、1983年から1985年にかけてエチオピアで発生した飢饉の支援金を集めるために制作されたチャリティシングル「ウィ・アー・ザ・ワールド」(1985年)を、ライオネル・リッチーと共同で作詞作曲しました。
こちらもお薦め!マイケル・ジャクソン THIS IS IT
「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」は、2009年に公開されたマイケルのドキュメンタリー映画です。
この「This is it」という言葉は「これで最後だ」という意味で、マイケルが2009年7月から公演予定のロンドンでのライブを、最後のライブだという趣旨の発言をしたことから名付けられています。
2009年6月25日にマイケルが急死したため、公演を予定していたロンドン公演のリハーサル映像を基に制作されました。
この映画は当時のドキュメンタリー映画としては、歴代1位の興行収入を記録しています。
マイケルの代表曲14選
ABC/Jackson 5
1970年2月24日にリリースされ、 1970年4月にビルボードホット100シングルチャートで2週間1位を獲得しました。
この曲はジャクソン5の2枚目のアルバムのタイトル曲であり、アメリカでは発売後1週間で200万枚、全世界では400万枚以上を売り上げています。
I’ll Be There/Jackson 5
1970年8月28日にリリースされ、ビルボードホット100シングルチャートで1位を獲得しました。
この曲は、ジャクソン5の3枚目のスタジオアルバム「Third Album」からの最初のシングルとして発売されました。
1992年にマライア・キャリーがカバーしています。
Don’t Stop ‘Til You Get Enough
1979年7月10日にエピック・レコードからリリースされ、マイケルの5枚目のスタジオアルバム「Off the Wall」の1曲目に収録されています。
この曲はマイケルのソロシングルとしては、「Ben」に続いて全米ビルボードホット100チャートで1位を獲得した2曲目になります。
そして、1980年のグラミー賞で最優秀男性R&Bボーカル・パフォーマンス賞を受賞し、マイケルにとって初のグラミー賞受賞となりました。
Rock With You
1979年11月3日にリリースされた、5枚目のソロスタジオアルバム「Off the Wall」からの2枚目のシングルになります。
この曲は全米ビルボードホット100チャートで1位を獲得し、4週間トップの座を維持しました。
Off the Wall
1980年1月31日にリリースされた、5枚目のソロスタジオアルバム「Off the Wall」のタイトル曲です。
この曲は全米ビルボードホット100チャートで10位を記録し、アルバムからは合計4曲がトップ10入りを果たし、史上初の快挙となりました。
Billie Jean
1983年1月2日、6枚目のスタジオアルバム「スリラー」からの2枚目のシングルとしてリリースされました。
マイケル自身が作詞作曲をし、クインシー・ジョーンズと共にプロデュースも手掛けています。
この曲は全米ビルボードホット100チャートで1位を獲得し、その他多くの国の音楽チャートでトップ10入りを果たしました。
そして、1983年のベストセラー・シングルの1つとなり、マイケルのソロ・シングルとして最も売れた曲となったのです。
MTVは、黒人音楽は「ロック」中心の番組編成には合わないという理由で「ビリー・ジーン」のミュージックビデオの放送を拒否していましたが、放送を拒否されたことに激怒したマイケルのレコード会社、CBSレコードの社長がMTVの人種差別に対する姿勢を暴露すると圧力をかけ、MTVは折れて1983年3月10日に「ビリー・ジーン」のミュージックビデオを初公開しました。
ミュージックビデオがヘビーローテーションで放映された後、アルバム「スリラー」はさらに1000万枚売れたそうです。
Beat It
1983年2月21日、6枚目のスタジオアルバム「スリラー」からの3枚目のシングルとしてリリースされました。
この曲もマイケル自身が作詞作曲をし、クインシー・ジョーンズと共にプロデュースも手掛けています。
全米ビルボードホット100チャートで1位を獲得し、3週間トップの座を維持しました。
クインシー・ジョーンズにロックソングを入れるように勧められて書いたこの曲には、ロックバンド、ヴァン・ヘイレンのギタリスト、エディ・ヴァン・ヘイレンのギターソロが含まれています。
ミュージックビデオにはプロのダンサーだけでなく、ロサンゼルスの実際の対立ギャング(ブラッズとクリプス)からそれぞれ9名ずつが起用されています。
Wanna Be Startin ‘ Somethin’
1983年5月9日、6枚目のスタジオアルバム「スリラー」からの4枚目のシングルとしてリリースされました。
この曲もマイケル自身が作詞作曲をし、クインシー・ジョーンズと共にプロデュースも手掛けています。
全米ビルボードホット100チャートで最高位は5位でしたが、カナダとオランダでのチャートでは1位を獲得しています。
Human Nature
1983年7月4日、6枚目のスタジオアルバム「スリラー」からの5枚目のシングルとしてリリースされました。
この曲はクインシー・ジョーンズがプロデュースし、トトのメンバー数名が演奏、マイケルがボーカルを担当しています。
全米ビルボードホット100チャートで7位を記録し、1993年にはR&BガールズグループSWVのシングルでこの曲をサンプリングしたリミックス版「Right Here (Human Nature Remix)」が、ビルボードホット100チャートで最高2位を記録しました。
Say Say Say
ポール・マッカートニーとのコラボ曲で、1983年10月3日にポールの5枚目のソロスタジオアルバム「パイプス・オブ・ピース」からのリードシングルとしてリリースされました。
全米ビルボードホット100チャートで1位を獲得し、6週間トップの座を維持しました。
マイケルとポールは1982年10月にもアルバム「スリラー」に収録された「The Girl Is Mine」という曲でコラボしており、この曲は全米ビルボードホット100チャートで2位を獲得しています。
Thriller
1983年11月11日、6枚目のスタジオアルバム「スリラー」からの7枚目のシングルとしてリリースされました。
全米ビルボードホット100チャートで最高位は4位でしたが、フランス、ポルトガル、スペイン等で1位を獲得し、他の多くの国でトップ10入りしました。
ミュージックビデオは数々のホラー映画を参考にして作られており、中でもマイケルがゾンビの大群と踊るシーンが圧巻で、様々な出版物や読者投票で史上最高のミュージックビデオに選ばれています。
Bad
1987年9月7日、7枚目のスタジオアルバム「Bad」からのセカンドシングルとしてリリースされました。
この曲もマイケル自身が作詞作曲をし、クインシー・ジョーンズと共にプロデュースも手掛けています。
マイケルが雑誌で読んだ記事で、私立学校に通うことで貧困から抜け出そうとした若い男性が、帰宅途中に殺害されたという実話に基づいて書かれたそうです。
全米ビルボードホット100チャートで1位を獲得し、2週間トップの座を維持しました。
ミュージックビデオは映画「ウエスト・サイド・ストーリー」に影響を受けていて、マイケルとギャング団が地下鉄駅でストリートギャングを演じるダンスを披露しています。
Smooth Criminal
1988年10月13日、7枚目のスタジオアルバム「Bad」からの7枚目のシングルとしてリリースされました。
全米ビルボードホット100チャートで最高位は7位でしたが、ベルギー、アイスランド、オランダ、スペインで1位を獲得しました。
このミュージックビデオの中で、マイケルとダンサーが足を床に平らにつけたまま45度前傾し、そのまま元の姿勢に戻るという物理的に不可能な動きを見せて、人々を驚かせました。
その秘密は特殊な靴によるものでしたが、その靴を履いていても普通の人にはできないと専門家の方は語っています。
体幹の筋肉、腹筋、体幹中央部の筋肉を鍛えたうえに、かなりの練習が必要だそうで、このビデオを見て真似しようとしてケガをした人もいたそうなので、真似をするのは危険ですから絶対に止めましょう。
Black or White
1991年11月4日、8枚目のスタジオアルバム「デンジャラス」からのファーストシングルとしてリリースされました。
マイケルはレコードプロデューサーのビル・ボトレルと共に、この曲の作詞、作曲、プロデュースを手掛けています。
全米ビルボードホット100チャートで1位を獲得して7週間トップの座を維持し、その他多くの国のチャートでも1位を獲得し、1992年には世界で最も売れたシングルとなりました。
ミュージックビデオには当時の人気子役マコーレー・カルキンや、スーパーモデルのタイラ・バンクスが出演しています。

