「ロックは今、危機的状況にある」
ベストヒットUSAの司会でお馴染みの小林克也氏が、番組の中でこのようなことをおっしゃっていました。
(さすが、洋楽界の重鎮のお言葉には重みがあります!)
1950年代にキング・オブ・ロックンロールと称されたエルヴィス・プレスリーがロックの創始者の一人となって、アメリカやイギリスの若者達にロックンロールを広め、その後1960年代に入りビートルズが登場したことによってロックンロールは「ロック」と呼ばれて広く親しまれるようになり、1970年代から1980年代には「ハードロック」と呼ばれるジャンルがブームとなりました。
そして1990年代にはオルタナティヴ・ロックやグランジロックが主流となり、その後のヒップホップやラップの台頭により、2010年代以降、ロックはヒットチャートから姿を消していくことになります。
このような状況からロックの衰退が危惧されており、危機的状況にあるというわけなのです。
今の若い世代は、ロックを「ダサい」、「うるさい」、「古臭い」と感じている方も多く、最近は新しいロックバンドがデビューすることもなく、ロックミュージシャンというと50代以上のベテラン(おじさん?)ばかりのため、ロックが流行るのは難しい状況だと言えます。
しかし最近、カセットテープや昭和の歌謡曲が若者達の間で人気を集めているそうなので、もしかしたらロックも人気が復活する日が訪れるかもしれません。
というわけで、今回はロックの復活を願ってハードロックの名曲をchoiceしていきたいと思います。
そもそもハードロックとはどのような音楽かと言いますと、大きな音とド派手な演奏、エレキギターのソロや速弾き、ボーカルのシャウト、派手なパフォーマンスなどを特徴とした音楽のことを表します。
今回ご紹介する曲は、80年代前半から後半にかけて絶頂期を迎えたHR/HM(ハードロック・ヘヴィメタル)ブームの頃にヒットした名曲ばかりです。
なぜHR/HMなどと、二つセットのような表記をしているかというと、ハードロックとヘビーメタルの定義が非常にあいまいで、このバンドはハードロック、このバンドはヘビーメタルといった具合にはっきりと判別するのが難しいため、このような表記をされることが多いのです。
そして90年代に入り一気に勢いを失っていったHR/HMバンドは、音楽性を変えらざるを得なかったり、解散を余儀なくされたりと、苦難の道を進むことになります。
しかし、80年代に全盛期を迎えたHR/HMバンドの多くが、2020年代の現在においてもバリバリの現役で頑張っています。
それでは、その絶頂期の輝かしいパフォーマンスを堪能して、これからもHR/HMバンドを応援していきましょう!

Scorpions/Big City Nights
ドイツが誇るHR/HMバンド、スコーピオンズは1965年にデビューし、今年(2025年)でデビュー60周年を迎え、これはザ・ローリング・ストーンズに次ぐ現役長寿ロックバンドなのだそうです。
しかし、デビューしてから約10年ほどは、母国のドイツ以外ではほとんど存在を知られていないローカルバンドでした。
ところがそんなスコーピオンズに、世界進出のチャンスが訪れます。
渋谷陽一氏(音楽評論家でロッキング・オン会長)が、ラジオでスコーピオンズの「復讐の蠍団 イン・トランス – In Trance」というアルバムの曲を紹介したところ、それが大きな反響を呼び、その後口コミでスコーピオンズの人気が広まり、1978年に初来日が決定したのです。
遠く離れたアジアの国で、自分たちの音楽が聴かれているなどとは夢にも思っていなかったスコーピオンズのメンバー達は、日本から突然来日公演の話が舞い込み、とても驚いていたそうです。
そして初来日に向けて、スコーピオンズ側から日本の楽曲を歌いたいという申し出があり、当時のファンクラブの人がスコーピオンズの音楽のコード進行などを調べた結果、「荒城の月」を歌ってもらうことが決まり、譜面とカセットテープをドイツに送って練習してもらい、来日公演で披露されました。
1978年の初来日公演は全てソールドアウトとなり、その後この初来日公演を録音したスコーピオンズ初のライヴ・アルバム「蠍団爆発!!スコーピオンズ・ライヴ~トーキョー・テープス」が世界中のロック・ファンの間で話題となり、翌年1979年のアルバム「ラヴドライヴ」が米・英で初チャート・インを果たし、こうしてスコーピオンズの人気は日本から世界へと広がっていったのです。
今回ご紹介する「Big City Nights」という曲は、1984年にリリースされた9枚目のスタジオアルバム「Love at First Sting」からの 3番目のシングルとしてリリースされました。
この曲はスコーピオンズが二度目の日本公演の時に、ディスコで夜遊びをして帰ってきてからホテルの窓を開けてみたところ、東京の街のネオンがドイツでは見たことのないような美しい景観だったことから作られたそうです。

スコーピオンズは1984年に開催された「スーパー・ロック ’84 イン・ジャパン」に出演しているよ!ちなみに、このロックフェスにはボン・ジョヴィも初来日で出演しているんだよね。

Van Halen/Panama
ヴァン・ヘイレンは、1973年にアメリカ・カリフォルニア州で結成されたHR/HMバンドです。
勘違いされている方も多いようですが(レノックスも勘違いしていました!)、今回ご紹介する「Panama」という曲名をパナマという国の名前だと思っていましたが、実は車の名前から付けられたものでした。
ボーカルのデイヴィッド・リー・ロスが、ラスベガスで見たレースに出ていた車の名前が「パナマ・エクスプレス」といって、その名前から取ったそうです。
それでは何故、車の名前が曲名になったかというと、デイヴィッド・リー・ロスが記者から「女性とパーティーと高級車についてしか歌っていない」と非難されたことがあったのですが、そこでデイヴィッドは高級車についての曲を書いたことがなかったことに気づき、それなら書いてみようと思ったのです。
この曲は、1984年にリリースされた6枚目のスタジオアルバム「1984」からシングルカットされました。

ギタリストのエディ・ヴァン・ヘイレンの愛車、1972年型ランボルギーニ・ミウラSのエンジン音が曲の中で使用されているよ!
Van Halen/Hot For Teacher
引き続きヴァン・ヘイレンの曲で、「Panama」と同じアルバム「1984」からシングルカットされた曲です。
このミュージックビデオはアーティスト・マネージャーのピート・アンジェラスとデヴィッド・リー・ロスが監督を務めていて、ビデオにはヴァン・ヘイレンのメンバーの子供時代を演じる子役が出てきて、セクシーな女性教師の姿に大盛り上がりとなったり、ずっと怯えながら学校生活を送っている大きな眼鏡をかけた男の子が出てきたりと、とてもユニークなビデオに仕上がっています。
そして、この曲の一番の魅力と言えば、やはり天才ギタリスト、エディ・ヴァン・ヘイレンのギターソロと言えるでしょう!
ヴァン・ヘイレンは、このエディ・ヴァン・ヘイレンと兄のアレックス・ヴァン・ヘイレン兄弟が結成したバンドに、同じ大学でバンド活動をしていたデヴィッド・リー・ロスとマイケル・アンソニーを迎え入れて結成されたバンドです。
実はバンドを始める前までエディはドラムをやっていて、アレックスがギターを弾いていたのですが、エディが留守の間にアレックスがドラムを勝手に叩いていたところ、アレックスの方がドラムが上手くなってしまって、エディは仕方なくギターの方を始めたと語っています。
それがのちに「ライトハンド奏法」(日本のみの呼称)と呼ばれる非常にテクニカルなギター奏法であるタッピングを広く普及させ、その後のギタリストに大きな影響を与えるギタリストになったのですから、何が功を奏するか分からないものですね。
それからエディの活躍はヴァン・ヘイレンにとどまらず、マイケル・ジャクソンの「Beat It」のギターソロもエディが担当しています。
2011年には「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」で8位に選ばれるなど、名実ともに偉大なギタリストとなったエディですが、残念ながら2020年に喉頭がんのため65歳で亡くなっています。
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エディの息子、ウルフギャング・ヴァン・ヘイレンは、2006年からヴァン・ヘイレンのベーシストとして活動しているよ。
それから、デヴィッド・リー・ロスが、2012年5月から2013年2月まで日本に住んでいたというから驚き!
RATT/Round And Round
ラットはアメリカのサンディエゴで結成されたバンドで、LAメタルと呼ばれたバンドの一つです。
LAメタルとは、1980年代にLAを拠点に活動していたバンドで、長髪に濃いメイクを施し、チェーンや鋲をあしらったアクセサリーにレザーの衣装を身にまとい、その華やかなルックスから多くの女性ファンも獲得しています。
しかし、1980年代後半頃から人気は急速に衰えていき、LAメタルのブームは長く続きませんでした。
LAメタルの代表的なバンドはラットの他に、モトリークルー、ポイズン、クワイエットライオット、W.A.S.P、ドッケンなどが挙げられます。
「ラウンド・アンド・ラウンド」は、ラットの1984年のアルバム「アウト・オブ・ザ・セラー」からシングルカットされた曲で、ビルボードホット100で12位を記録し、ラットにとって最大のヒット曲となりました。

この曲はアメリカの人気ドラマ「スーパーナチュラル」のシーズン1で使用されているよ!
Def Leppard/Photograph
デフ・レパードは、1976年にイギリス・シェフィールドで結成されたロックバンドです。
「フォトグラフ」は、1983年にリリースされた3枚目のスタジオアルバム「パイロマニア(邦題:炎のターゲット」からのリードシングルです。
アメリカのビルボードホット100では12位、ビルボードメインストリームロックチャートでは6週間もの間1位を記録する大ヒットとなりました。
この曲は、ボーカルのジョー・エリオットのお気に入りの女優、マリリン・モンローについて歌ったものだと言われていますが、最初は特定の女優について書かれたものではなかったそうです。

このミュージックビデオに出てくる女性、ずっと本物のマリリン・モンローだと思っていたけれど、実はそっくりさんでした!


Def Leppard/Hysteria
引き続き、デフ・レパードの「ヒステリア」をご紹介します。
ヒステリアは、1987年にリリースされた同名のスタジオアルバムからの4枚目のシングルです。
この曲はビルボードホット100で最高10位を記録し、バンドにとって初のトップ10入りを果たしました。
アルバム「ヒステリア」は、1983年にリリースされた3枚目のスタジオアルバム「パイロマニア」の続編にあたり、制作に3年以上を費やしました。
なぜなら、1984年にドラマーのリック・アレンが交通事故のため左腕を切断するという不幸な出来事が起こったからです。
1984年の大みそかに、リックが当時の彼女と愛車のコルベットでイギリスのシェフィールド近郊の曲がりくねった田舎道をドライブしていたところ、前を走っていた車が加速と減速を繰り返すという挑発的な運転を続け、カッとなったリックがその車を追い越そうとしてスピードを上げたところ、リックのコルベットはコントロールを失って横転してしまい、その衝撃でシートベルトが外れて左腕が巻き込まれ、腕がちぎれてしまいました。
そして左腕だけ車内に残したまま、リックの身体は車外へと放り出されてしまったのです。
その後、病院に搬送され、左腕をつなぎ合わせる手術を受けたのですが、感染症を引き起こし、左腕を切断することを余儀なくされたのです。
この時、リックはまだ21歳でした。
左腕を失った若きドラマーは絶望に打ちひしがれていましたが、家族や友人、そして世界中のファンの人達から届いた何十万通もの手紙に励まされ、特別に設計された電子ドラムキットを導入し、失った左腕の代わりに左足を駆使して演奏し、見事デフ・レパードのドラマーとして復帰を果たしたのです。
こうした苦難を乗り越えて、3年という歳月をかけて完成したアルバム「ヒステリア」は、アメリカのアルバムチャート・ビルボード200と全英アルバムチャートで1位を獲得し、世界的な成功を収めたのでした。

このミュージックビデオにも車が出てくるけど、交通事故は本当に怖いっ!!
中には悪質なドライバーもいるから、車を運転するときは常に冷静でマイペースでいるべきだね!
Whitesnake/Is This Love
ホワイトスネイクは、1978年にイギリス・ロンドンで結成されたロックバンドです。
ボーカルのデイヴィッド・カヴァデールは、1973年から1976年までディープ・パープルのボーカルを務めていました。
「Is This Love」は、1987年にリリースされた7枚目のスタジオアルバム(アメリカでは「Whitesnake」、ヨーロッパでは「1987」)からの2枚目のシングルです。
この曲は全英シングルチャートで9位、米国ビルボードホット100で2位を記録する大ヒットとなりました。

ミュージックビデオに出演している女性は、デイヴィッド・カヴァデールの当時の恋人で女優のタウニー・キタエンだよ!

Guns N’ Roses/Welcome To The Jungle
ガンズ・アンド・ローゼズは、1985年にアメリカ・ロサンゼルスで結成されたロックバンドです。
「ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル」は、1987年にリリースされたデビュー・アルバム「アペタイト・フォー・ディストラクション」からの2枚目のシングルとして最初にイギリスでリリースされ、その後1988年にアメリカでもリリースされ、ビルボードホット100で7位を記録しました。
この曲の歌詞は、ボーカルのアクセル・ローズがニューヨークに出かけたときに出会ったホームレスの男性から「お前は自分がどこにいるか分かっているのか? お前はジャングルにいるんだ、お前は死ぬぞ!」と言われたことからインスピレーションを得たそうです。
その男性はアクセルのことを家出した若者だと思ったらしく、怖がらせて家に帰そうとしたみたいですが、それがきっかけでこんな名曲が誕生するとは、夢にも思わなかったことでしょう。

この曲は数多くの映画やテレビで使用されていて、1988年公開の「ダーティハリー5」には、ガンズ・アンド・ローゼズのメンバー5人も出演しているよ!
Bon Jovi/Born To Be My Baby
昨年(2024年)デビュー40周年を迎え、日本限定のベストアルバム「オール・タイム・ベスト 1984-2024 (スーパー・デラックス・エディション)」を発売したボン・ジョヴィ。
日本のファンに好きな曲を投票してもらい、その投票結果で上位50曲に選ばれた曲を収録したアルバムなのですが、この「ボーン・トゥ・ビー・マイ・ベイビー」は、3位に選ばれた人気曲です。
この曲は、1988年にリリースされた4枚目のスタジオアルバム「ニュージャージー」からの2枚目のシングルで、ビルボードホット100で3位を記録する大ヒット曲となりました。
ニュージャージーというアルバムのタイトルは、バンドの出身地であるニュージャージー州にちなんで付けられたものです。
ミュージックビデオは「ボーン・トゥ・ビー・マイ・ベイビー」をレコーディング中の様子を撮影したもので、ビデオの最後でアルバム「ニュージャージー」がアメリカのアルバムチャートで1位を獲得したことを知り、メンバー全員で抱き合うシーンが映し出されています。

ミュージックビデオにジョン・ボン・ジョヴィの奥様、ドロシアさんがちょこっと登場しているよ!
二人は1989年にラスベガスで極秘に結婚し、マネージャーが激怒したそうだよ。
この曲は1988年にリリースされたから、この時はまだ結婚してなかったってことだよね?
Alice Cooper/Poison
アリス・クーパーは、1964年にアメリカ・アリゾナ州フェニックスで結成されたロックバンドで、結成当時はスパイダーズというバンド名でしたが、1967年にバンド名をナズに改名したものの、ナズというロックバンドが他に存在したため、1968年にアリス・クーパーに改名しました。
しかしバンドは1975年に解散し、ボーカルのヴィンセント・ファーニエは芸名として「アリス・クーパー」という名前を使い続け、ソロ・アーティストとして活動をスタートします。
今回ご紹介する「ポイズン」は、1989年にリリースされたアリス・クーパーの11枚目のソロスタジオアルバム「トラッシュ」からシングルカットされた曲で、ビルボードホット100で7位、イギリスのシングルチャートで2位を獲得するヒット曲となりました。

1988年のイギリス初公演で、アリス・クーパーは赤ちゃん人形を剣で突き刺したり、女性のマネキンを斧で切り裂いたり、妊婦の腹を裂いたり、偽の血を飛び散らしたりと、まるでホラー映画のような残酷な演出が行われ、それを見て気絶したり嘔吐したりした人もいたそうだよ。
この報告を受けたドイツは、ツアー前にステージショーの内容を検閲し、ショーの一部を中止したそうだよ。
Winger/Seventeen
ウィンガーは、1987年にアメリカ・ニューヨークで結成されたハードロックバンドです。
ボーカル/ベースのキップ・ウィンガーは、1985年から1987年まで先程ご紹介したアリス・クーパーのツアーバンドメンバーのベーシストとして活動していました。
しかし、キップは自分の音楽をやりたいという気持ちが強くなり、アリス・クーパーのバンドを去る決断をするのですが、自分のことを一番応援してくれたのはアリスだとキップは語っています。
そしてキップとキーボード/ギターのポール・テイラーを中心に、スタジオ・ミュージシャンとして活躍していたギターのレブ・ビーチ、元ディキシー・ドレッグスのドラマー、ロッド・モーゲンスタインという実力派のメンバーを集めてウィンガーを結成したのです。
中でもギタリストのレブ・ビーチは高度なギターテクニックの持ち主で、「カッティング・ルース」というタイトルのビデオを発売し、レブ独自のギターテクニック等を紹介しています。
「セブンティーン」は、1988年にリリースされたデビュースタジオアルバム「ウィンガー」からのシングルで、1989年にリリースされました。
この曲はビートルズの曲「I Saw Her Standing There」の歌詞からインスピレーションを得たそうです。
キップは、「カバーバンドがセブンティーンを演奏しているのを何度も見てきたが、あのリフを正しく演奏できる人は誰も見たことがない」と語っており、レブのような凄腕ギタリストだから弾きこなすことができる難しい曲なのだそうです。


最初バンド名を「Sahara」にするつもりだったんだけど、同じ名前のバンドが存在したため「ウィンガー」になったそうだよ。
でもアルバム「ウィンガー」のジャケットには「Sahara」と記載されているよ!
Winger/Headed For A Heartbreak
引き続き、アルバム「ウィンガー」からのシングル、「ヘッデッド・フォー・ア・ハートブレイク」をご紹介いたします。
この曲は1989年にリリースされ、ビルボードホット100で19位、メインストリームロックチャートで8位を記録しました。
そして、アルバム「ウィンガー」はプラチナディスクを獲得し、1990年のアメリカン・ミュージック・アワードで「ベスト・ニュー・ヘビーメタル・バンド」にノミネートされるなど、順調にキャリアを積み重ねていたのですが、1990年代前半頃からグランジロックの人気が高まり、1993年の3枚目のアルバム「プル」以降に人気が衰えていきます。
そこに更なる追い打ちをかけるような出来事が起こります。
1992年に公開されたヘヴィメタルバンド、メタリカのドキュメンタリー映画「A Year and a Half in the Life of Metallica」で、ドラマーのラーズ・ウルリッヒがキップのポスターを的にしてダーツをしているシーンが公開され、ラーズとボーカル兼ギターのジェイムズ・ヘットフィールドが、ダーツが飛び続ける中、何度も「死ね、キップ、死ね!」と叫んでいたのです。
これをきっかけに、ウィンガーはメタリカのファンからバッシングや嫌がらせなどの標的にされることとなります。
さらに、90年代半ばにアメリカおよび世界中で大人気となった、ユーモアと皮肉が散りばめられたMTVのアニメ「ビーバス・アンド・バットヘッド」の中でも、北米で一番ダサいバンドと馬鹿にされ、ウィンガーのTシャツを着ている子がいじめられているシーンが出てくるなど、バンドのイメージは悪くなる一方で人気も急落し、1994年に解散することになったのです。
のちにメタリカのジェイムズ・ヘットフィールドからキップに謝罪の電話があったそうですが、ダーツを投げたラーズ・ウルリッヒからは謝罪は無かったそうです。
侮辱され、それがきっかけでバンドが解散したというのに、キップは「MTVやマイク(アニメの制作者)を訴えようとしたことは一度もないし、アニメに問題があったわけでもない」、「ジェイムズ・ヘットフィールドは本当に素晴らしい人で、友達になれそうな感じだった」などと言っていて、とても器の大きい人だと感じました。
その後、キップは大学でクラシック音楽を本格的に学び、第59回グラミー賞で「最優秀現代クラシック作曲賞」にノミネートされています。
ロックミュージシャンなのに、なぜクラシック音楽を学び始めたのかというと、キップは16歳からクラシックバレエを習っていて、バレエ曲を作曲したかったからなのです。
キップが見せるステージ上の華麗な動きは、クラシックバレエで培われたものだったというわけです。
しかし残念ながら、2025年1月にキップがオペラの作曲業に専念するため、バンドの無期限活動休止を決めたことを発表し、3月~4月にかけて最後の来日公演が行われます。
バンドの活動が今後どうなるかは分かりませんが、並々ならぬ努力の結果、念願のクラシック音楽の作曲家としてキャリアを築き始めたキップのことを、これからも応援していきたいと思います。

ウィンガーは華やかなルックスとパフォーマンスのため、軟派でチャラいイメージを持たれてしまって損をしたのかもしれないね。
本当は音楽一筋の硬派なミュージシャンなのに、くだらない誹謗中傷のためキャリアが立たれてしまって非常に残念!
だけど、他のバンドを侮辱するような真似をするのは大人げない行為だね!
2025年3月、ウィンガー最後の来日公演決定!!
CreativemanOfficialより
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